香港の鉄道カードシステムを巡る大型案件の入札日が近づいてきた。日本ITCソリューションの課長である佐々木と三森事業部長は、競合相手、北京鳳凰に最後の説得に向かう。準備してきた資料を元に佐々木が丁寧に説明することで、反対派だった北京鳳凰の海外事業部長、郭の関心をも引きつけることができた。佐々木は「日本人と組めばプロジェクトが間違いなく成功する」という印象を与えられるよう話に力を入れる。その後、全員がレストランに向かい、そこで再び蘇董事長に会った。
教育勅語は、まさしくここでいう『五倫』を説いている。だが戦後はGHQによって廃止され、道徳教育は形骸化していった。中国には文化大革命があったが、儒教の精神はいまだに健在で、親に対しての孝養は絶対である。翻って残念なことに日本は戦後こうした『五倫』はなくなってしまった。
董事長の“本当のこと”に話を戻そう。
彼が言うには、今回の入札には裏があり、ほぼ同規模の別のプロジェクトが予定されている。別プロジェクトについては香港政府と話がついており、入札期間を極端に短く操作しようとしている。競合他社が入札できないようにするためだ。だから今回の入札は価格を極端に安くし、その次のプロジェクトで挽回すればいいと考えていた。だが佐々木の話を聞き「信用できる」と思ったので、本当の話をしているという。董事長は話を続けた。
「佐々木さん、日本にも戦前は教育勅語なるものがあって、中国の儒教の教えと同じことを日本の国民は信奉していました。しかし先ほども申し上げましたように、今の日本人は、そうしたことを勉強していないと思っていました。
中国には『中国の精神』があります。文化大革命で物が破壊されましたが、精神までは破壊できませんでした。日本にも『日本の精神』があったはずです。ところが最近の日本人には、そうした気概が見当たらないのは残念なことです。今回、久しぶりに佐々木さんのような考えをお持ちの方にお会いできて嬉しく思います。
久しぶりというのは、実は私は30年前、大連に住んでいました。当時、大連に近接して旅順の軍港がありました。そこに日本の元軍人さんたちがたくさん来て、現地の解放軍と交流しました。彼らは元大連市の瓦房店にあった旅団の将校だったようです。旅団長はもう亡くなられていて、副旅団長と20人ぐらいの元将校がきました。旅順港には日本人は入れないのですが、彼らは招待されていました。
大連市内に大連賓館というホテルがあります。そこに彼らは泊まりました。昔、日本の直轄市だった頃は大和ホテルと呼ばれていたところです。彼らは旅順の元旅団のあった場所で、村おこしのために蕎麦を植えようと、4日間の予定で滞在していたのです。
私は、彼らと解放軍との歓迎会に同席する機会を得、そこで出会った彼らは皆、日本の精神を持った立派な方々でした。みなさん平服でしたが、応対の仕方は軍服を着ているのと同じ姿勢でした。敬礼こそしませんでしたが、背筋をピンと伸ばした物腰は軍人そのもので威厳がありました。
勿論、私は戦後生まれなので、戦前の日本軍は知りません。ですが、彼らからは、そうした威厳と迫力が感じられました。解放軍の将校も彼らに敬意を払っていました」
彼は昔の話をひとしきりしたが、それは佐々木の話とその物腰から彼らを思い出したからだと言った。
(以下、次回に続く)
海野恵一の目
ここでのポイントは、佐々木が董事長に熱弁を振るった『五常』と『五倫』だ。これは董事長が人生の指針として大事に守ってきた座右の銘であり、佐々木の発言に董事長が感銘を受けたのはそのためだった。彼は日本のことも良く勉強していて、戦前は教育勅語があり日本でも徳育教育を行っていたが、戦後はなくなってしまったということを知っていた。
董事長が言うように今の日本人は、日本の歴史とか「日本の精神」をきちんと勉強している人がほとんどいない。そうしたことを勉強している佐々木を董事長は信用し、今回のプロジェクトの経緯を説明してくれた。董事長は彼らを全面的に信用してくれたのである。
筆者プロフィール
海野 惠一(うんの・けいいち)
スウィングバイ代表取締役社長。2001年からアクセンチュアの代表取締役を務める。同社顧問を経て2005年3月退任。2004年にスウィングバイを設立した。経営者並びに経営幹部に対するグローバルリーダーの育成研修を実施するほか、中国並びに東南アジアでの事業推進支援と事業代行を手がけている。「海野塾」を主宰し、毎週土曜日に日本語と英語での講義を行っている。リベラルアーツを通した大局的なものの見方や、華僑商法を教えており、さらに日本人としてアイデンティティをどのように持つかを指導している。著書に『これからの対中国ビジネス』(日中出版)、『日本はアジアのリーダーになれるか』(ファーストプレス)がある。当小説についてのご質問は、こちら「clyde.unno@swingby.jp」へメールしてください。
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