香港の鉄道カードシステムを巡る大型案件の入札日が近づいてきた。日本ITCソリューションの課長である佐々木と三森事業部長は、競合相手、北京鳳凰に最後の説得に向かう。準備してきた資料を元に佐々木が丁寧に説明することで、反対派だった北京鳳凰の海外事業部長、郭の関心をも引きつけることができた。佐々木は「日本人と組めばプロジェクトが間違いなく成功する」という印象を与えられるよう話に力を入れる。その後、全員がレストランに向かい、そこで再び蘇董事長に会った。
鍋ができあがると、しばらくは全員が食べることに集中した。北京鳳凰の副総経理である邱が佐々木に問いかけた。
「今日はありがとうございました。これまで今回のような質問に答えてくれる人がいませんでしたので、いくつも目から鱗が取れました。御社と是非、一緒に仕事をしたいですね」
「それはどうもありがとうございます。私たちも今回のプロジェクトでは是非ご一緒に仕事をしたいと考えています。ですので今日、こうして資料を一所懸命に作ってきました」
佐々木が答えた。そうしたやり取りをしているうちに、そろそろお開きになろうとしたころ、董事長がゆっくりと話し出した。
「前回の佐々木さんのお話にも感激しましたが、今回の皆様の弊社を思ってくださる熱意にも感激しました。皆さんの私共に対する対応は、これこそ私が信奉している『五常』そのものです。仁・義・礼・智・信を実践している中国人は多くありません。この五常があるからこそ、父子、君臣、夫婦、 長幼、朋友の『五倫』の道が全うできるのです。先日佐々木さんが、この『五常』と『五倫』を説明され、我々との関係も、そのようになりたいと言われました。
過日もお話ししましたように、日本にも戦前は教育勅語があり、日本人も『五常』と『五倫』を唱っていました。それが戦後なくなってしまったので、日本人にはもう徳育がなされていないのだろうと思っていました。それが今回、皆さんの対応は『仁』と『義』をわきまえておられたので、びっくりしました。これまで日本人は信用できないと思っていましたが、信用できる人もいるのだということが今回、初めて分かりました。
それで、息子とも相談しましたが、あなた方を信用することにしました。ですので本当のことをお話ししましょう」
董事長が言う“本当のこと”の前に、五倫と教育勅語について少し説明しよう。
中国の戦国時代にあって孟子は、秩序ある社会を作っていくためには、何よりも親や年長者に対する親愛・敬愛を忘れないことが肝要であることを説き、そのような心を「孝悌」と名づけた。その「孝悌」を基軸に、道徳的法則として、以下の「五倫」の徳の実践が重要であることを主張した。
父子の親=父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない
君臣の義=君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない
夫婦の別=夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる
長幼の序=年少者は年長者を敬い、従わなければならない
朋友の信=友は互いに信頼の情で結ばれなくてはならない
孟子は、これら五徳を守ることで社会の平穏が保たれるのであり、これら秩序を保つ人倫をしっかり教えられない人間は禽獣に等しい存在であるとした。
かつて日本にも五倫と同じ教育がなされていた
日本には『教育勅語』というものがかつてあり、この五倫を訓諭していた。これは、明治天皇が山縣有朋内閣総理大臣と芳川顕正文部大臣に対し、教育に関して与えた勅語である。12の徳目を挙げ、戦前まで日本人は学校で唱和していた。
父母ニ孝ニ (親に孝養を尽くしましょう)
兄弟ニ友ニ (兄弟・姉妹は仲良くしましょう)
夫婦相和シ (夫婦は互いに分を守り仲睦まじくしましょう)
朋友相信シ(友だちは互いに信じ合いましょう)
恭儉己レヲ持シ(自分の言動を慎みましょう)
博愛衆ニ及ホシ(広く、すべての人に慈愛の手を差し伸べましょう)
學ヲ修メ業ヲ習ヒ(勉学に励み職業を身につけましょう)
以テ智能ヲ啓發シ(知識を養い才能を伸ばしましょう)
德器ヲ成就シ(人格の向上に努めましょう)
進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ(広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう)
常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ(法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう)
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(国に危機があれば自発的に国のため力を尽くし、それにより永遠の皇国を支えましょう)
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