[麻生川静男の欧州ビジネスITトレンド]

BMWとベンツの研究から見えてくる、量子コンピュータの“現実的な”活用方向性:第21回

2021年3月4日(木)麻生川 静男

ドイツの自動車産業では古くからHPC/スーパーコンピュータが活用されていた。例えば、ポルシェ(Porsche)は1983年に「Cray-1」を使って衝突シミュレーションを始め、シュツットガルト大学で行った実際の衝突テストとの値の比較をしていた。当時のスパコンの性能ではリアルタイムでの計算実行や分子レベルの計算は不可能だったが、近年の量子コンピュータ技術の発展により、積年の課題が解決されようとしている。

 課題は多々あれど、量子コンピュータがいよいよメインストリームに躍り出ようとしているのは確かである。ドイツの自動車業界では、独BMWが米ハネウェル(Honeywell) と、独ダイムラー・ベンツ(Daimler-Benz)が米IBMと組んで、従来型のコンピュータでは難しかった課題の解決に取り組んでいる。

量子でサプライチェーンの効率化に挑むBMW

 まず、BMWの取り組みを紹介しよう。BMWはハネウェル、シンガポールに本拠を置くベンチャーのエントロピカラボ(Entropica Labs)と共同で、いくつかのビジネス課題を量子コンピュータで解決しようとしている(画面1)。

画面1:米ハネウェルのWebサイトで「How BMW Can Maximize Its Supply Chain Efficiency with Quantum」と題して、BMWの量子コンピュータへの取り組みが紹介されている(https://www.honeywell.com/us/en/news/2021/01/exploring-supply-chain-solutions-with-quantum-computing)

 課題の1つは複雑なサプライチェーン/物流の効率化である。両社は多数の部品サプライヤーにいつ、どれだけの部品を納入してもらえばよいのかを決定するのに量子コンピュータが生かせないかを模索する。トヨタ自動車が提唱したジャストインタイム生産方式の概念における究極の解決案と言えよう。

 もう1つは電気自動車(EV)関連の課題で、充電/バッテリー供給用ステーションの最適な配置に関するものだ。この分野では、電気自動車の安全性、空気特性などの設計・製造に対する解析など、この分野には数多くの課題が残っている。

 ハネウェルはリニアイオントラップ方式の量子コンピュータシステムとして、6量子ビットの「Honeywell System Model H0」と10量子ビットの「同 H1」を稼働する(写真1)。H1は70量子ビットでの稼働テストがすでに成功しているという。同社は量子コンピュータを時間売りしているので、ユーザー企業はリモートから計算ジョブをサブミットして計算することになる。

写真1:Honeywell System Model H1のリニアイオントラップ(Linear ion trap)。イオントラップはイオン(荷電粒子)を捕獲する装置のこと(出典:米ハネウェル)

 BMWがハネウェルのシステムで走らせるプログラムは、「再帰量子近似最適化アルゴリズム(R-QAOA:Recursive Quantum Approximate Optimization Algorithm)」を用いてエントロピカラボで開発が進んでいる。RQAOAはサプライチェーンに関連する最適化問題を解くのに適したアルゴリズムであるという評価がある。従来のHPC(High Performance Computing)システムにも同じ計算をさせて、量子コンピュータと処理にかかった時間を比較したが、BMWの技術者たちは確かな手ごたえを感じているようだ。

ベンツがリチウム硫黄バッテリーの実用化で目指すもの

 次に、ベンツがIBMと組んで進めている取り組みを紹介しよう。同社が試みるのはEVのバッテリー領域での活用だ。EVに依然として残る大きな課題は、長距離走行には物足りないバッテリー容量とその長い充電時間だ。現在広く使われているリチウムイオン(Li-ion)バッテリーでは難しい。

 問題を解決するため、ベンツは2015年からEVのバッテリーをリチウムイオンからリチウム硫黄(Li-S)に替えるべく研究を重ねている。リチウム硫黄はクリーンで原材料も安価なうえ、バッテリー容量を増やし、充電時間を短くできるという多くの利点があるからだ。

 新材料を使って電池を作る場合、どのような材料をどう混合すればよいかを正確に知る必要がある。単に材質の知識だけでは不十分で、分子レベルでどのような挙動をするかを正確に知る必要がある。たがいの分子同士の関連に加えて、環境の状況までも考慮すると、組み合わせは無限になる。そこで、分子レベルの挙動を正確にシミュレーションする能力として量子コンピュータに着目したわけだ。

 このようなシミュレーションのベースに、2017年9月にIBMが発表して、Nature誌の表紙を飾った1つの重要な論文がある。「Hardware-efficient Variational Quantum Eigensolver for Small Molecules and Quantum Magnets(小分子と量子磁性体の計算のためのハードウェア効率の高い変分量子固有値ソルバー)」と題されたその論文は、水素、水素化リチウム(LiH)、水素化ベリリウム(BeH2)の分子を量子コンピュータでシミュレートする方法を示している。

 量子コンピュータで分子挙動をシミュレートする方法が確立されたという意味で、画期的な論文である。量子コンピュータを使うことで、複雑な分子挙動の解析結果を数分のうちに得られる算段だが、その計算のために多数の量子ビットのシステムが必要だ。現段階では量子ビットはせいぜい100であり、リチウム硫黄バッテリーの分子挙動の解析をするにはまったく足りない。

 そこでIBM、メルセデスベンツリサーチ、バージニア工科大学は、物理的に量子ビットを増やすのではなく、少ない量子ビットでも計算できるアルゴリズムを共同開発した。方法論的には相関因子ハミルトニアン(Transcorrelated Hamiltonian)を使うことで分子内の電子の挙動が表記可能だが、新手法では今までよりも多くの情報を分子の挙動関数に詰め込むことに成功した。

 この新たなアプローチを適用することで、現在のようにわずかな量子ビットのシステムもフッ化水素分子の挙動を正確にシミュレーションすることができるようになったという。ベンツは、EV向けの高効率・長寿命バッテリーがやがて現実のものになると期待している。

写真2:米IBMが2019年1月に発表した世界初の汎用近似量子コンピューティング統合システム「IBM Q System One」(出典:米IBM)

●Next:現時点における量子コンピュータの現実的な活用を考える

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