日本を代表する百戦錬磨のCIO/ITリーダー達が、一線を退いてもなお経営とITのあるべき姿に思いを馳せ、現役の経営陣や情報システム部門の悩み事を聞き、ディスカッションし、アドバイスを贈る──「CIO Lounge」はそんな腕利きの諸氏が集まるコミュニティである。本連載では、「企業の経営者とCIO/情報システム部門の架け橋」、そして「ユーザー企業とベンダー企業の架け橋」となる知見・助言をリレーコラム形式でお届けする。今回は、CIO Lounge正会員メンバーの井上尚氏からのメッセージである。
筆者は現在、ITコンサルタントとして活動しています。最初からそうだったわけではなく、一般企業のIT部門がキャリアのスタートでした。以来45年、大変な思いもしましたが、さまざまな機会や運に恵まれて今日に至っています。ここではそんな筆者が経験した転機と折々の気づきを書かせていただきます。一言でまとめると、「変化対応=成長」だったと思います。
新人SEとしてプログラミングやシステム開発を経験
1979年に大学を卒業した筆者は、松下電器産業(現パナソニック)に入社。システムエンジニア(SE)の職務に就きました。コンピュータに詳しいわけではありませんでしたが、当時の配属はそんなもの。やるしかないと腹をくくったのですが、困ったことがありました。
同期10人のうち筆者だけが松下通信工業に配属。1979年はオイルショックからの復活途上で松下電器も採用を絞っており、身近な先輩も6才ほど離れていて、新人の筆者からみれば雲の上の人でした。当時はメインフレームを活用した自社システム開発の全盛期。当たり前ですが、SNSはもちろんインターネットも電子メールもありません。同年代のSEとの接点がほぼなく、自己成長の確認方法に戸惑ったのです。
先輩から「COBOLプログラムはできて当たり前。アセンプラが使えてようやく一人前」との指導を受け、その言葉を頼りにCOBOL1年、アセンブラ1年を自らの目標としました。プログラミングだけでなく、当時はシステムの企画から設計、開発、テスト、導入を1人で行うスタイルです。今から考えると牧歌的な時代ですが、なんとか目標を達成してSEとしての基礎固めができました。
その頃はIT部門の名前が、電算システム部から情報システムセンターに変わった時期でした。特定業務の合理化を担う部門からさまざまな業務をシステム化する専門部門に変化した時代でもあります。そんな中、一人前の定義も、アセンプラのプログラミングができる人材から情報をハンドリングできるプロセス設計者に変わったと思います。プログラミングに加えて設計から導入をこなしたおかげで時流に乗ることができました。
海外出向でオープン化、パッケージ利用を経験
最初の転機は1993年、米国にあった製造会社のIT責任者として出向した時に訪れました。松下通信工業には5つの海外製造会社がありましたが、設立時期が異なることもあってITは各社各様でした。基本機能は「受発注+決算」と変わりませんが、地域本社提供のシステム利用、松下電器貿易が作成したシステムを利用、「IBM System/36」のRPGで独自開発したシステムを利用──などとバラバラだったのです。
そこで各社で運用可能であり、日本から一定のサポートが可能であるという条件で、海外製造会社のための標準システムの構築が重要テーマとして浮上。筆者は企画から参画し、導入までを担当しました。メインフレームやオフコンからオープン系サーバーへの移行期で、海外要員が維持運用できることを前提にパッケージを選定。3年間(1年開発・2年展開)で全5工場に導入しました。
この仕事を通じて、スクラッチ開発からオープン系のパッケージ活用へというITの新しい波を経験し、自前主義から脱却して将来を見極めながらベストの選択を行うことの重要性、それに海外要員とのコラボレーションの重要性、を学ぶことができました。余談ですが、当時選んだのは米ゼロックス(Xerox)が開発した「ChESS(チェス)」というパッケージでした。この製品は現在、富士通の「GLOVIA」にマイグレートされています。
●Next:全社プロジェクトへの参画、外資系への移籍、続く転機から得たもの
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