市民や住民一人ひとりの健康を増進し、必要に応じて適切な医療を受けられるようサポートしていくことは、パブリックセクターの極めて重要な役割のはずである。しかし5年前や10年前と比べ、大幅に何かが良くなっているという印象はあまりない。保険証こそマイナンバーカードに切り替わりつつあるとはいえ、例えば薬を入手するために紙の処方箋を薬局に持参する必要があるし、この冬には一部でインフルエンザによる医療逼迫や医薬不足が生じた。デジタル技術で改善できるはずのことが、なぜ今もできていないのか? あるいはできているが、知られていないだけなのだろうか? 現状と今後の展望を、ヘルスケア領域を担う富士通の専門家に話を聞いた。(聞き手:インプレス 編集主幹 田口 潤)
提供:富士通株式会社
──健康医療関連のシステム構築や運用に長く携わってきたと聞きました。前線にいる立場として、この分野でのデジタル技術活用の実情をどう捉えていますか。率直に言えば進歩が遅い、もしくは進化しているという実感がないのですが。
いきなり厳しいですね(笑)。ただご指摘は当たらずとも遠からず、つまり今は夜明け前であるとお考え頂ければ。厚生労働省は2030年に電子カルテの普及率を100%にすることを目指しており、実現すれば医療関連情報がデジタルで、しかも標準化された形で流通することに弾みがつきます。そうなれば健康医療関連の手続きやサービスが大きく高度化することが期待できるでしょう。今はそれに向けた制度改正や基盤構築などの環境整備が、着々と進んでいるところです。
少し具体的にお話しすると、過去数年だけでも自民党政務調査会の「医療DX 令和Vision2030」や、政府の「骨太の方針2024」における医療DXの推進、厚生労働省による「データヘルス改革」など、政策面で色々な取り組みが提唱、推進されてきました。それらの目的は基本的なところで通底していて、診療・介護サービスの高度化、国民の健康増進、健康医療エコシステムの構造変革、持続可能な制度運営、の4つがあります(図1)。
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それらを実現するために、政府は国民を一元的に認証する基盤、つまりはマイナンバーカードの仕組みに加えて、高度な診療のための情報共有基盤や、関係機関の間でスムースかつ合理的に手続きを進めるための業務連携の仕組み、そしてヘルスケアにおけるEBPM(Evidence Based Policy Making:合理的根拠に基づく政策立案)や基礎技術向上のための解析基盤といったプラットフォームの整備に取り組んでいます。
2030年の節目に向けて整備が進むデータ基盤
──なるほど。世の中では、現行の健康保険証が2024年12月2日から新規発行されなくなり、マイナンバーカードを基本とする仕組みとなって、それに伴う混乱が話題になりました。しかし水面下では先々の政策目的を見据えた幾つもの取り組みが、同時並行で進められていると?
その通りです。少子高齢化による働き手不足という大きな問題は国民の健康医療、つまりヘルスケア領域にも様々な影を落としていますからね。例えば今は、かかりつけの医院に書いてもらう病院への紹介状や薬の処方箋などは紙の書類ですよね? それを患者や家族が持参して各所に出向きます。つまり人がハブとなって機関同士を連携させるという、なんとも前時代的なやり方です。そうではなくて、情報やデータを連携できれば人が動く必要をなくせます。そうすると無駄やミスを減らせますし、より高度な医療にもつなげることが期待できます。
<プロフィール>
1999年 富士通入社後、自治体ビジネスに従事。2019年 オンライン資格確認システムやNDB等、データヘルス事業を担務。現在は、厚生労働省ビジネスを担務しつつ、健康医療事業の戦略策定、EBPM事業を企画
一つ例を挙げると、予防接種を受けた情報が医療機関で登録されると自動的に自治体の関連システムにも反映され、一定期間が過ぎれば再び接種を受けるタイミングである旨をその人に通知するようなことができます。同様に、難病であることが医療機関で診断されて登録されると、当人が面倒な申請をしなくても自治体から医療給付金が支給されるといったこともできるようになります。
──非常にいいことだとは思いますが、ただ失礼を承知で言えば、それらのことはとっくの昔にできていて当然ではないでしょうか。なぜ2030年なのでしょう?
言い訳に聞こえるかもしれませんが、ヘルスケア分野でも当然、ずっと前からテクノロジーを活用してきました。カルテの電子化にしても30年以上も前から取り組んできましたし、そうしたことによって医療機関の業務を効率化してきました。しかし、その頃は病院や自治体などの関係機関がネットワークでつながって連携するような世界は描けず、個々の医療機関のニーズに閉じた電子カルテが中心でした。必然的に疾病や医薬のコードも標準化されず、部分最適だったのです。それらが、いわゆる“技術的負債”の1つとなって、新たな取り組みを難しくしている面があります。
一方でデジタル技術はここ20年ほど、指数関数的な勢いで進化し続けています。コンピューティングやストレージの性能、ネットワークの帯域幅などは飛躍的に高まりましたし、結果としてクラウドコンピューティングも、今は“クラウドファースト”と言われるほど定着しました。だからこそ今、健康医療の分野における様々な課題を解決する手段として、テクノロジーを活用する取り組みが進められているわけです。今は実感できないかもしれませんが、2030年頃には大きな効果が期待できるように、です。
ただし道のりは決して平坦ではありません。例えばデータを収集して分析し、何らかの価値や効果を導き出すことを想定すると、データを蓄積したり処理したりするプラットフォームの整備もさることながら、それ以上に流通させるデータの意味や形式を揃えたり、目的通りに運用し続けるための工夫を盛り込んだりといった取り組み、すなわちデータマネジメントが重要になります。
しかしヘルスケアに関わる情報の多くは、取り扱いに注意すべき機微情報です。それに健康や医療に関わるだけに、情報やデータの意味もしっかり定義する必要があります。そうしたことを様々なステークホルダーに周知するだけでも大変で、厚労省やデジタル庁をはじめ政府がビジョンを掲げて推進していますが、全体像がうまく伝わっていない実情があります。先ほど指摘された、マイナ保険証などにアレルギー反応を示す声もそんなところに起因していて、仕方ない面があるとはいえ残念です。
世界と比肩するレベルになりつつある日本
──産みの苦しみとも言えるかもしれませんね。ところで2030年に向けて動いていることは分かりましたが、2025年の今はどんな段階でしょうか。
図2を見て頂けますか。健康医療サービスの高度化という観点から見ると、ベースとなる認証基盤への取り組みは2019年くらいから始まりました。オンラインの個人認証や医療機関認証の仕組みです。2021年以降は健診情報やレセプト情報、薬剤情報などの基本的な情報が連携できるようになりました。
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利用率はまだまちまちで反対意見もありますが、国としては原則、実現に向けてオンゴーイングで取り組んでいます。電子カルテや介護情報、国民と自治体による医療機関の連携といった情報共有の基盤もまさに構築中です。
それらが整えば、標準化されたデータが揃って、データの利活用やパーソナライズという次の段階に進む足がかりとなります。しかし難しいのは基盤の活用や現場でのデータ活用などですから、本当の意味での社会実装はまだこれからという状況です。
──俯瞰的、そして客観的に見て、進捗状況は100点満点で何点ですか?
難しい質問ですけど、70点はつけられるのではないでしょうか。打つべき手立ては打っている一方で、まだまだ伸び代もあるという意味での70点です。よく「欧米と比較してどうなのか?」とも聞かれますが、それほど遜色ないと考えています。先進国の1つであるフィンランドを例にとれば、確かに10年前は大きな開きがあったかもしれません。でも現地で関わっているグループのメンバーと情報交換してみると、日本はここ数年で一気に巻き上げつつあると言ってよく、世界に肩を並べつつあるのではないでしょうか。
データの連携で「できること」が飛躍的に広がる
──それは頼もしいですね。話を先に進めると、前出の図2は認証や基本情報連携などの基盤を整備する取り組みですよね。もう一歩先というか、基盤ができた上で取り組むべきことは何かについて、テクノロジーベンダーとしての視点を交えながら教えて下さい。
ご期待に沿う回答かどうかは分かりませんが、主に4つの領域があると考えています。①医療機関や介護事業者といった現場におけるサービスの高度化、②自治体と保険者などの間でのデータ連携による価値創出、③政策立案や研究機関でのデータ活用、そして④民間企業でのデータ活用推進、です(図3)。
図3から概要を理解頂けると思いますのでそれぞれの細かい説明は省きますが、健康に関する自治体と住民(保険者)との関係性を例にとっても大きく変革できる余地が残っています。キーワードの1つが、マイナンバーを活用したデータ連携の取り組みである「Public Medical Hub(PMH)」です。
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PMHを整備すれば、例えば自治体が予防接種の対象者をリストアップすると、対象者にプッシュ型通知で病院に行くことを促すことができます。窓口で保険者がマイナンバーカードで受付すれば「あ、この人は予防接種に来たのだな」ということが分かり、実際に接種を受けたことも自動的に登録される…。そんな一連のフローを実現する仕組みです。
今お話したのはほんの一例で、もっと連携を拡大して様々な手続きを自動化できる可能性があります。医療機関が作成した出生証明書を自治体に連携させて出生届と合わせて受け付けるとか、住民登録やマイナンバー付与といったことを処理し、しかるべきタイミングがくれば、予防接種の通知や児童手当の申請などを自動化する、といったことです。
合理化と自動化を進める余地がまだまだある
──今は何をするにも申請や手続きが必要ですから、登録済みの情報から分かることを自動化したりプッシュ通知してくれたりすると助かりますね。申請漏れもなくなりそうです。
健康医療から離れた話になりますが、極論すると人生において能動的な申請は4種類あれば十分ではないかと考えます。「生まれました」「引っ越しました」「結婚・離婚しました」「死にました」です。最初の出生と最後の死亡は、医療機関をトリガーとした連携が実現できるはずですので、2つまで絞り込むことも考えられるのではないかと思います。
さらに色々なユースケースが思い浮かびますね。マイナンバーカードによるオンライン資格確認が100%になれば、いつ誰がどこの医療機関にかかっているのかがリアリタイムで把握できます。さらに電子カルテ情報を共有できるようになれば、それぞれがどんな症状なのかといったことも把握できます。仮に新型コロナのパンデミックのようなことが再び起きた際、当該の感染症の患者が何人どこにいるのかを正確に把握した上で、対策を立案できるわけです。
図3の4番目にありますが、民間の事業者との連携も大事です。本人同意の下で民間事業者がマイナポータル経由で情報を入手すれば、例えば保険に加入する際の診断書の添付を自動化することも難しくはありません。ジムで定期的にトレーニングをしている人の保険料を割り引くようなダイナミックプライシングもできることでしょう。製薬会社向けの治験マッチングや、臓器のドナーマッチングも可能になります。
政策立案にもテクノロジーを存分に活かす
──個人情報を保護するという大前提はあるにせよ、データを連携・流通できると可能性が大きく拡大するのですね。それに加えてデータ量が増えれば、冒頭でお話があったEBPMにも貢献しますか?
どの自治体も住民の健康寿命を延ばしたいと考えているでしょうし、社会保障制度の運営をサステナブルなものする意味でも健康寿命は大切です。しかし、どうすれば健康寿命を延ばしたり、社会保障費を抑制したりできるのか、その方策は立てるのは簡単ではありません。例えば気候や食べ物は地域毎に違いますから、どこかの自治体でうまくいっている方策があるからといって、単純に別の自治体が取り入れてもうまくいかない可能性があるのです。そこでデータを活用して策を立案し、効果確認もしたいという考えが広がっています(図4)。
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少し専門的な話になりますが、厚労省が管理するレセプト情報・特定健診等情報データベース(NDB:National DataBase)や、国保連合会が健診・医療・介護などの給付情報から統計用に作成する国保データベース(KDB)を筆頭に、これまでも医療健康分野ではデータを地道に蓄積してきた経緯があります。
ひところはデータが膨大になり過ぎて手に負えない問題もありましたが、それも今や昔の話です。完全に解消されましたし、昨今話題のAIも追い風となって各種の分析が身近に、また手軽にできるようになっています。例えば医療費が増加している理由として、糖尿病やガン、生活習慣病のそれぞれが、どのように影響しているかを弾き出すことは今や難しくありません。
──とするとヘルスケア領域におけるEBPMはかなり進んでいますか?
残念ながら、その先が難しいのです。例えば厚生労働省などが進める政策の一つに「糖尿病性腎症重症化予防プログラム」があります。医療費も患者の負担も大きい腎症の重症化を予防するプログラムで、2016年4月に策定されました。地域の医師会や糖尿病対策推進会議、自治体などが連携して今も進めています。それくらい時間がかかりますし、難しい側面があります。
糖尿病には大きくわけて遺伝的要因と生活習慣による要因がありますが、どちらがどれくらい大きいか。前者はともかく、後者の生活習慣は、どのようにコントロールできるか。例えば肥満率が改善されたら、発症率はどれくらい変化するのか。そういったところをしっかり突き詰めなければ、適切な保健指導や医療機関の受診推奨ができませんので、なかなか大変です。
実績データを当て込んだシミュレーション
──なるほど、医療費増大の要因のようなマクロ事象は分析できても、健康維持や疾病予防のための施策をEBPMで立案するのは時期尚早なのですね。しかし一方で今日、説明頂いた政策や基盤的な取り組みの整備が進めば、つまりテクノロジーを活用して様々なデータを収集・分析できるようになれば、状況は大きく変わるとも考えられます。
はい、我々もそう考えています。実はそのためのチャレンジの1つとして、当社は「Policy Twin(ポリシーツイン)」を提案しています。簡単に言えばデジタルツインのアプローチで自治体の施策を再現し、地域や住民などへの影響を把握したりシミュレーションしたりする取り組みです。富士通研究所が開発した技術がベースになっており、2024年12月6日から「Fujitsu Research Portal」上で公開を開始しました(図5)。★編集部注★デジタルツインの詳細については別記事(https://it.impress.co.jp/articles/-/27268)を参照
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先の「糖尿病性腎症重症化予防プログラム」を例にとると、糖尿病にかかりやすいと思われる人を抽出し、予防のための生活改善を働きかけるわけですが、対象者を選ぶ基準や介入策は自治体によって様々です。厚労省のガイドラインに沿っていても、自治体ごとの地域特性を踏まえた政策効果最大化につながるやり方になっていない場合もあるので、もっと実効性を上げられる策があっても分からない。そこで実績データを当て込みながらシミュレーションし、より適切な策に近づける仕組みがPolicy Twinです。
──うーむ、ちょっと難しい(笑)。もう少しかみ砕いて説明して頂けますか。
プログラムに参加している自治体は、候補者(ハイリスク者)を抽出する基準や管理栄養士による保健指導や医療機関での受診勧奨といった介入策を、文書としてまとめています。多くの場合、それらの文書を担当部署や担当者が参照しながら、それぞれのやり方でプログラムを運営しているわけですね。ですからどの基準や指導をどの程度重視するのかは担当者に委ねられますし、医療費の増減などとの因果関係も分からないのが普通です。
それに対しPolicy Twinでは文書を読み解き、コンピュータ処理に適した論理的な構造や手順、いわばフロー図へと自動変換します。さらに複数の自治体が行った実績のある施策を参考にして、他の候補フロー図も生成します。
いくつか出来上がったフロー図において、起点からどのような分岐をたどって施策を進めていくのか。人の行動選択を考慮した機械学習などを使いながら、保健指導件数や医療機関受診件数といった実績データを使ってシミュレーションします。それで医療費節減効果や保健指導実数といった指標がどのように変化するのかを見ながら、落ち着きどころを探れるのです。さらに、各フローから“よいとこ取り”してのシミュレーションもできるので、関係者それぞれが納得する施策へ成熟させることが期待できます(図6)。
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──つまり、現在は担当部署や担当者が文書に基づきそれぞれの裁量で暗黙知的に実施している施策を、フローも含めて形式知的に可視化し、実績データとも連携させる。そうすればシミュレーションなどを通じて施策を改善できるようになる。そのための仕組みや手法がPolicy Twinであると、こういう理解でいいですか?
その通りです、有り難うございます(笑)。もちろん今は提案段階ですし、Policy Twinもまだまだブラッシュアップしていく必要があります。ですから自治体の方々と一緒に、我々が人的に支援するところまで視野に入れて健康医療分野でのEBPMを具体化することに、貢献できればと思っています。
実際、どのようなデータをどう取得するか、どんな頻度や粒度のデータが適切か、あるいは膨大なデータを安全安心に蓄積し、活用するためにはどうすればいいかといったことは、当社のようなテクノロジー企業が貢献できるし、貢献しなければならないエリアですからね。
眼前の問題を一つひとつ解決することは欠かせませんが、それに加えて健康医療に関わる行政をスマートでサステナブルなものにするために、先々にどんなやり方や手法があるか、どのような絵が描けるかを分かりやすく提案し、時に一緒に実施していくことも重要なミッションであり、貢献できるポイントです。Policy Twinはその先駆例であり、今後、もっと増やしていく所存です。
参考記事
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